「こころめぐり逢い」

  テレビの取材を受けたことを以前当蘭(2/9日付)でお伝えした。
  その番組「こころめぐり逢い/二胡と匠の旅」が、こんどの日曜日(3/26日)午前11時半〜同54分までBS-TBSで放送されます。下のリンクを開くと今週いっぱいはぼくの写真が出ていますので、よかったらご覧になってください。
  https://bs.tbs.co.jp/music/kokoromeguriai/

  これの取材日が1月31日だった。
  その前々日の晩、いつものようにアルコールで朦朧とした状態でベッドに横になり、顔の上にiPadをかざして、ボーッとUチューブを見ていた。そしたら突然iPadが手元から滑って顔の上に落ちてきた。ギャーっと悲鳴をあげ、しばらくは顔面を抑えたまま動けなかった。タブレットの角が丁度左目の下の頬骨を直撃し、皮膚を削り、血まで出ていた。一瞬救急車を呼ぼうかと思ったがグッとこらえ、とりあえずは湿布で冷やして夜を耐えた。
  翌朝カガミを見ると血は止まっていたが、当たったところが腫れて青あざになっている。よりによって取材の直前にこんなことになるなんて。取材を断るか、それとも眼帯でも着けて誤魔化すか、当日の朝まで悩んだ。
  しかしまあ、結局は、取材をお受けし、番組はなんとか成立したようである。さいわい取材班にはメイクの担当者が帯同していて、傷をほとんど目立たなくしてくれた。しかし朝まで悩んでいたせいで、カメラの前で語るべき言葉をほとんど準備しておらず、ろくなことをしゃべっていない。おまけに当日は腰の具合が悪く、立っているのがやっとという状態だった。
  テレビには何回か出たことがあるが、今回はまったく自身がない。
  見るのがコワイです。

二胡奏者のジャー・パンファンさん(写真右)、ギタリストの中村圭之介さん(写真左)、写真には写っていませんが(株)フォックス・ワンの近藤弘志さん、マネージャーの森本麻莉さん、カメラマンや照明さん、メイキャップの担当者、その他大勢のスタッフのみなさん、このたびは色々とありがとうございました。

「次回生徒展のこと」

  ぼくの教室の現役生とOB諸氏らの集まり「渋谷クラフト倶楽部」では一年半おきに有楽町の交通会館ゴールドサロンに於いて、われわれの作品展を開催して参りました。ところがここ数年、コロナ禍のために開催のペースが乱れておりまして、次回は、前回開催から2年後の、2024年の2月に、今度で通算17回目になる「渋谷クラフト倶楽部作品展」を開催することが決まりました。(2024年2月25日から3月2日まで)。
  当クラブの初代世話役氏が一年半おきにと決めたのは、良作をつくるにはそれぐらいの時間がかかるという趣旨からであり、その意味から言うと今回は2年もの間があるので、数多くの良作が揃うことが期待されます。
  期待通りに生徒たちによる作品点数が多かった場合、会場全体を生徒作品で埋め尽くすべきとわたしは考えています。しかしそうでなかった場合は、いつものように、わたしの作品展と生徒作品展との合同展になるかもしれません。生徒単独展なのか合同展なのか、まだ決まっていません。
  生徒のみなさんの発奮を期待いたします。
  ちなみに、最近わたしの教室に入った生徒のみなさんの中で、自分もクラブに入りたいとおっしゃる方がいらっしゃれば、当クラブ会長・山野順一朗氏まで連絡をください。作品展の開催や、懇親会(要は飲み会)や、勉強会や、各種イベント(浜松ホビーショー)への出場など、コロナでなければ、いろいろと活動しています。会費は年3,000円です。
  山野会長: yamano11ro@gmail.com

2022年2月に開催された第16回展のようす。このときは生徒展と拙展との合同開催でしたので、手前の暗い部分が芳賀作品のスペースで、奥に見える明るい箇所が生徒作品のスペースでした。

「作家展終了」

  以前ここでアナウンスさせていただいた「JDAミニチュア・ドールハウス作家展vol.3」に、拙作一点(デカルト通りのブーランジェリー)を出品し、展は、おとといの夕刻無事に終了いたしました。(下の写真)。
  JDA(Japan Dollshouse Association)が主催する催しには、前会長の時代からもう20年以上、毎年続けて出品してきましたが、今回は少し間が空いての出場でした。そのあいだに、会場である「東京都立産業貿易センタービル浜松町館」は近代的なハイテクビルへと生まれ変わり、周辺を含めた想像以上の変貌ぶりには非常に驚きました。。
  むかし洋服の商売をやっていたころ、アパレル各社がよく展示会場としてこのビルを使っていたので、旧ビルには特段の馴染みがあり、JR浜松町駅から歩5分の道のりを何回も歩いたものでした。いまの仕事に転じてからは、今度はJDAがこのビルでショウを開催するようになり、そんなわけで、わたしの浜松町通いは、もう40年以上になる。
  その歩き慣れた駅からの道が、今回行ってみると、途中から空中の道へとつながり、道は10メートル以上の高さをキープしたまま、直接貿易センタービルへと接続している。道は更にゆりかもめ竹芝駅の改札口へもつながり、そのまた先にまで伸びている。なんたることか。浦島太郎になった気分であった。
  そんなわけで、道やビルは新しくなったが、ショー(作家展)の中身はむかしと変わらず、広さ300坪ほど(もっとか?)の会場に50組(?)ほどのディーラーがテーブルをならべ、フードや草花や食器などのミニチュアグッズを販売するお馴染みのスタイルで、作家展と名乗る割にはその名にふさわしい作品はほとんど見かけなかった。だが想像していたよりもはるかに混んでいて、会場は常に100名以上の客で満たされていた。

右がぼくで左が元生徒スギちゃん(60歳)。
スギちゃんは現在北海道滝川市にアトリエを構え「男のドォルハウス」のキャッチフレーズでさまざまなドールハウス活動を行なっている。我がクラブ(渋谷クラフト倶楽部)の会員であり、なおかつ「札幌クラフト倶楽部」の主宰者でもある。コロナ禍が長かったので、会うのはずいぶんひさしぶりだったが、ちょっと見ぬまにグッと貫禄がつき、バッチリかっこよくなっていた。

「オカダさんが…」

  ニコ生、ユーチューブ界で今やその名を知らぬ者のない、オタキングで知られるユーチューバー、岡田斗司夫さんが、お仲間一名を伴って、先日風のように現れた。実はオカダさんはむかし、有楽町での拙展の折に一度顔を見せてくれたことがあり、まったくの初対面ではなかったが、あの迫力満点のキャラを目の当たりにすると、やっぱり、改めて驚いた。
  プライベートギャラリーを拝見したいという用件だったので「オカダさんが、好きそうなものは、あんまり置いてないかも知れませんが…」と、言いながら、さっそくギャラリーへとご案内し
 「ご自由にお好きなだけご覧ください。」
  ひとこと述べて、わたしは隣の作業小屋へと引っ込んだ。
  彼は数日前のメールで「昭和33年/江戸川区鹿骨」(1/80)を見たいとおっしゃった。さすがに言うことがシブイ。しかしご指名の作品は展示しておらず、置いてあるのはいわゆる「パリもの」と呼ばれるアートインボックスばっかりだ。どう考えても彼の好みに合うとは思えず、10分もすればたちまち戻ってくるだろうと時計を見ていた。そしたらである。あにはからんや、なんと30分もご覧になり、また風のように去っていった。
  (写真: キシモト・ユウ)

常々オカダファンを公言しているユウさんに「一応お知らせします」と、事前にオカダさんが見えることを伝えたところ、当日彼は、わざわざ仕事を休んで、はるばる自宅の沼津(静岡県)からかけつけ、上の写真を撮った。

「先生のはなし」

  腰のマッサージを受けるため調布市の多摩川住宅という古い団地まで、ときどき通っているのだが、そこにむかしマンガ家のつげ義春が住んでいたと知り、驚いた…と、1/25日付で、ここに書いた。
  その続きです。
  以前は気がつかなかったが「無能の人」というつげ氏原作の映画には、正にわたしが通っている団地がモロに映っているし、ロケ地探訪的な記事も多数みつかった。つげファンにとって多摩川住宅はメッカのようなところだったのだ。
  そこで、マッサージの先生(74歳女性)に聞いてみた。
 「むかしこの団地につげ義春というマンガ家が住んでいたらしいですが、ご存知ですか?」
  すると先生は
 「ええ、知ってますよ、つげさんは同じ[ハ号棟]でしたから。奥さんとはしょっちゅう顔をあわせていました」
  やっぱり知っていた。マッサージの手をゆるめることなく先生は平然とそう答えた。だが、つげ氏本人とは一度も会ったことはなく、彼のマンガについてもよく知らないという。だとすると会っていても気がつかなかっただけなのかも知れない。
  当時先生のご主人は、団地の卓球クラブのリーダーを務めていて、そこにつげ夫人が入部したことからますます親しくなり、しかも、おなじ年ごろの子を持つ親同士。互いの子供について、あれこれ相談しあう仲となった。つげ氏の長男「正助さん」と、先生のお子さんは、おなじ小学校に通っていたが、つげ君は非常にナイーブな性格で、不登校児だったそうだ。その少年が、その後どのように成長したのか、先生はしきりに心配していた。
  実はわたし、その正助さんに会ったことがある。
  以前にも書いたが数年前某所から頼まれ、つげ作品映画化のため、背景としてのミニチュア作品を何点かつくったことがあった。そのときわたしは正助さんにもお会いし、名刺交換までしている。いただいた名刺には「つげ事務所・柘植正助」とあり、彼は父親の作品の版権管理やそのマネージャーをしていた。2020年フランス、アングレーム国際漫画祭で、つげ氏が特別栄誉賞に輝き、同時に「つげ作品展」が開催されたが、それらイベントを支えたのも正助氏だった。
  そのへんのことを説明すると
 「わあ、ほんとですか! つげ君、がんばっているのねえ」
  先生はまるで自分のことのように喜んだ。と同時にいつのまにかマッサージの手が止まってしまい、しばらく柘植談義となったので、わたしはゆっくりと治療台から身を起こし「こんど来るとき、正助さんの名刺を持ってきますよ…」と、お約束し、ほどなく先生の部屋を辞した。
  このごろつげ関係の作品はつくらなくなってしまったが、ひょんなところで、またつげつながりに出会うとは。まさに奇遇である。
  ——-つげ義春氏は現在85歳。お元気である。しかし正助氏の母である柘植マキさんは、そののち癌を発病し、1999年の春、58歳で亡くなっている。

写真はつげマンガにたびたび登場する多摩川住宅の給水塔。最初は5基あったそうだが、給水塔が5基もある団地は全国的にも珍しく、給水塔ファンのあいだで「聖地」と呼ばれているらしい。

「ミニチュア・ドールハウス作家展」

  2月1日付け当欄の記事に「新年会」の写真を掲載した。写真の右奥に小生が座っているが、小生の左側に黒いセーターの美女がいる。この美女は、なにを隠そう日本ドールハウス協会のあいさわかずこ会長である。
  このとき彼女の隣に座ったのが非常にまずかった。うまいこと説得されてしまい、日本ドールハウス協会主催の「ミニチュア・ドールハウス作家展」に、いまのところ点数は未定なれど、拙作を展示することになってしまったのである。
  そういう訳ですので、よかったらお出かけください。

  タイトル: JDAミニチュア・ドールハウス作家展 VOL.3
  会場: 東京都立産業貿易センター浜松町館3階展示室(北)
  住所: 東京都港区海岸1-7-1(JR浜松町北口から歩5分)
  会期: 2023年3月4日(土)12:00〜17:00
    (★4日12:00〜13:00会員限定プレビュータイム)
       3月5日(日)11:00〜16:00
  主催: 日本ドールハウス協会(JDL)
  入場料: 1,000円 (2日間共通チケット)

  早速きのうドサッと彼女から封筒が届いた。開けると、無料で入場できる「招待券」や、入場200円引きになる「割引ハガキ」などがいっぱい入っていた。例によって、そういう券モノ・はがきモノがほしい方には差しあげますのでご連絡ください。ただし先着順です。

しかし200円の値引きって、ちょっと、いかがでしょうか。せめて500円引きぐらいにしないと、誰も欲しがらないかも知れないねえ、あいさわさん。

「TVの取材があった」

  ひさしぶりにテレビの取材があった。
  毎週日曜日の午前11時半からBS・TBSで放送されている「こころめぐり逢い・二胡と匠の旅」という番組における「匠」の役を、あろうことかこのわたくしが仰せつかったからだ。
  取材班は1月31日の朝10時に第一班が到着し、やがて第二班、三班と次々に到着し、午後になるとスポンサー企業のマネージャーや、二胡奏者や、伴奏者らが到着。ピーク時には10名を超える関係者がボクのボロスタジオに集結した。彼らの機材や手荷物は玄関先の猫の額ほどの庭に積み上げられ、それでも置ききらず一部はスタジオ横の路地にまではみ出していた。その異様なさまを道行く人々がいぶかしげに一瞥し、通り過ぎていく。
  午前中はギャラリー内部や、田端駅にまで出かけて「東台橋」を撮影。昼休後は、二胡奏者ジャー・パンファンさんとボクとの対談だった。対談中デレクター筋からアレを喋れ、これを喋れと、やんわりとした指示があり、大体はその通りにしゃべった。その後ジャーさんの演奏があって、終わったのは午後4時だった。二胡という楽器を目の前で聴くのは生まれてはじめてのことだったが、なぜか懐かしく、優雅な音色は、しみじみと心に響いた。
  演奏後ジャーさんたちはすぐにお帰りになったが、数名のスタッフはそのまま残り、制作シーンの「やらせ映像」や、その他いくつかの仕掛品などを撮って、やっとこの日の取材が終了。すでに日はとっぷり暮れて、全員がお帰りになったのは午後の7時に近かった。
  いまごろ編集をやっているころだろう。
  放映日が決まったらまたお知らせいたします。

スタジオには3台のカメラがならべられ、ほかにも照明器具や録音装置など、色々な機材が持ち込まれた。それらの電気のコードがモジャモジャと床を這い、室外の電源へと繋がっている。そのため部屋の扉が閉められず、ずっと開けっ放しの状態だった。従ってエアコンもストーブもほとんど効かず、スタジオの中はものすごく寒かった。しかしオンエアーされるのは3月下旬なので、あんまり厚着も出来ず、それが、ちと辛かった。